昭和五十六年七月十六日 朝の御理解
御理解第七十九節
商売をするなら、買い場、売り場と云うて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものではないから働くがよい。
商売をするならこういう心がけ、こういう在り方にならなければならないぞと、まあ教えておられるわけでね。だからそれをやはり実験しようとする姿勢が必要なんです。で、なかったら商売の上にでも、実証は生まれてまいりません。
昨日は富久信会でございましたから、まあ御商売をなさっておられる方達のまあ、信心研修でしたが、昨日は伊万里支部の若い青年層の商売をしておる方達が四名か、この前から来よりますが、来てましたが、まあそれぞれにまぁ云うなら、新鮮なというかね、もう今まで全然知らなかった信心の世界、そして商売をさして頂いとるから、それにはやはり、信心さして頂くものの心がけというものを、商売の上に現して、まぁ面白うおかしゅういろいろ体験を語っておられましたが、段々最後には、まぁここで云うならまぁベテランの御商売人の方達ね、例えば正義先生とか、文男先生とか、佐田さんと云うような方達の発表を段々聞かせて頂いとる中に、本当に確かにおかげを受けると云うことはそう云うことだと思わせて頂いたんですけれども、昨日文男先生が発表致しとります時に、まぁ一言一言をそうじゃんね、そういう風な在り方にならにゃいかんもんねと、合点しながら聞いとったんですけれども、そしたら神様からね、手をこんなにして見せて下さるんですよ。子供ん時にこういうこれは極楽の道、反対にこうすると地獄道ね、こう剣の山のようになるでしょう。手をこうやってあるところを頂くんです。
ですから同じ手を合掌するとか、手を組むとかというても、云うならば本当に心がけ、いや心次第でね、極楽道にもなれば、云うならば剣の山、云うならば茨の道ということにもなるんです。それを文男先生が話しておりましたが、始めから心が楽とか、信心が有り難いと云うことが分かるはずもないし、けれども信心を頂くようになって、御商売をさして頂くようになったからもう、この生き方出いこうと腹を決めたその時点から、私の運命は変わったという話をしております。ね。
そしてんらその体験と云うことはどういう事かと云うと、成る程様々な商売の上でも、苦しい事はなったけれども、ひとつもそれを苦しいと思わなかった。例えば腹の立ってこたえんというような事もあったに違いないけれども、たとえ手云うと先生がその一本槍ですよ、先生の腹を立てんとこう決めた。もう自分は信心によるということを先ず決めて、その中の第一の修行として腹を立てんと決めた。決めた心にその時点から私の運命は変わったと云ってるんです。苦しいこともあった。あったけれども、それを苦しいと思わんで済むような働きが、その前後に必ず起こっておる。大変苦しいこと、大変な困った事。大変な損をしたことといったような事もいろいろあったけれども、それを損とも苦しいとも思わなかったと、私はそれを聞きながらね、確かにそうだと思った。ね。
例えば、手術をするのにね、あのう丁度何ちいうですかね、あれは、麻酔する注射を致しますでしょう。そんなもんじゃないだろうかと私は思いました。ね。神様一心にもうそこに腹が決まった時点にですね、神様が働きなさるその前後に、だからはぁ神様の御都合、神様の働きと、ここは腹かくだんじゃない、御礼をいわなならんという風に、そのそう云うところをそういう風な通りかたをして参りまして、今日ささやかな商売ではあるけれども、おかげで金銭になら、苦労することはない、必要な時には必要に応じておかげを頂いておるというお話でした。
ですからお互いがね、一心にどうぞお願いしますお願いしますと云いよるけれども、文男先生が信心によっておかげを頂くと腹を決める心が出けとらんです。こりゃもう長々ととても素晴らしい筋道立ててあのう、お届けする人がありますよ。
昨日もそりゃ、もう大変な修行をして大変な御用も出来る方の発表があっておりましたが、その先日こちらへ毎日電話かけて来られるのに、ここにお取次がつかえとったから、梶原先生かなんか出て、今いっぱいつかえとられますからと云うて後から電話かけてくれというたか何かじゃないでしょうか。だからもう神様から見放されたという風に思うてある教会に、お参りしたり、まあ電話をかけたりしたと云ったような発表をなさっておられましたがね、もうそん時思うんですね、私が、もうそれだけで成る程この人がおかげ頂かんはずだなぁと私は思いました。
そりゃ御用がどんどん出ければとかね、一心に毎日お願いしよります。毎日熱心にあのう、電話をかけよりますだけじゃいかんです。腹が決まっとらなければね、心ひとつというのは、そういう事ではなかろうかと文男先生が昨日云ってます。私が云うなら信心になるときの腹の決め方、例えば腹を立てんぞと決めたらもうそれに徹する生き方を行じてきた、
だからと云うてよい事ばかりじゃなかった。けれどもそん時にです例えば普通で云うなら血の涙の流れるようなまあはがいい残念な腹を立つような事もあったに違いないけれども、それをそう感じなかったと、何故かとその前後に神様の生き生きとした働きを頂いとるからだとね。腹が決まるとそういう働きをなさるんです。腹が決まると神様がちゃんとその辺に注射して下さる。いっちょん苦しいと思わんでん済むような働きをですして必ずくださるんです。ね。
一心と定めると云うことはそういう事。ね。だから今日のこの商売人に対するこの御理解はある意味において教祖様は商売をしておかげ頂きたいならば、こういう考え方にならねばいけないぞというひとつの方法論を説いておられるわけですね。よそより安く売れよ、売り場買い場を大切にせよね。
だからおかげ頂かんならんから、そうしておると云う時代からだんだん、例えば佐田会長なんかの話を聞いておりますとね、もう商売をする、教祖様がそう教えておられるからそうするじゃなくて、もうそうするのが当然の事として、そしてそれに、信心がありますから、それがそうする事が有り難い事として、云うならば、売り場買い場を大切にする。お客さんも大事にする、十銭のものは八銭のものにすると云うような生き方が他に出来ておるわけです。ね。だからね、こうしなければと云う、その方法論をまぁ倒れ転びしながらでも、実験実証して云っておるとです、神様の特別の働きを受けてね、成る程と云う合点が行くような事になって参りますから、しまいにはやっぱそうする、信心を段々頂い取りますとですたい、ね、信心を段々頂いて身に付いて来るともう信者としてそうする事は当たり前と云うことになってきた。
例えば文男先生が云ってます言葉を借りると、ここでは例えばまぁ余計に儲かる儲かられる場にあっても、なら信心さして頂いとればそんなわけにゃいかん。教えられとるから、それが段々身について来てるからね、ここでは儲けられる床でも、やっぱり云うなら十銭で売るものは八銭で売ると云う精神が心の中にしみこんでおる。方法論からそうせずにはおられないと云うことになってきて、それが信心さして頂いとれば当然な事だとしてそれが出来るようになる。その当然なことがもう有り難い事として、それが出けるように段々なっていくと云うことが、云うならば合楽理念では説いてあって、そういう在り方になれば、なら商売として頂きながら、お徳が受けられると云うことになるのじゃないでしょうかね。
昨日は丁度研修が終わってからでしたでしょうか、あのう佐田恒行先生がここでお届けを致しますもん。今に上滝総一郎という中学です。今の上滝さんの所の孫ですが、合宿に入っとります。それが久富先生が亡くなられたその晩にお夢を頂いた。ということをまあ佐田先生にお届けしたか話したかしたのでしょうね。そ勉強する机の上に久富先生が水兵服を着て座っておられる。海軍さんが着る服です。そしてあのう云われることが「これからは生神金光大神の足下に働く」そういう意味でしたかね。「足下になる」ということを云われて、それももう丁度休んどる枕元に立つと云うような事を、そういうような感じで頂いたんだそうです。これなんか皆さん、どういう風に思いますか、ここでは合楽という徳の船に乗ってとこういう、信心は久留米の初代もね、この世は徳の船に乗ってとおっしゃる。結局合楽という徳の船に皆さんまぁ乗せて頂いておるけれども、水兵服と云うことは、その船がの船員さんと云うか、その船を動かす事のための働きをしておる水兵さん達ちゃ、ここの先生達やらはそうでしょう。皆さんお客さんのごつして乗っ取るだけ。ね。云うならば久富先生の云うならば精神というのは、もうどんな生神金光大神の足下にと云うことは、先生が生前云うならば、これだけは私じゃなからにゃ出けんと云うようにして御用頂いておられた事をやはり、魂の世界に入ってもそれをそうせずにはおられないという心は魂の世界に入っても、その信心の根性というものをちゃんと持っておられるということを感じるでしょう。
今日私がこの御理解から頂いて頂きたいのは、金光大神は商売をするならこうせよ、ああせろ教えておられるのがね、それを本当に実行しなければいけないね、そしてそこから実験実証が生まれてくるとね、今度はやっぱそうした方が儲かるからそうせずにはおられないと云うものが生まれてくる。
だけじゃない、段々信心が血に肉になってくるとです、信心頂いておられるのだから、本当の事として出けるようになる。いやそれが有り難く出けるようになる。もうお徳の世界ね。私は久富先生の場合は、云うならお徳の世界だと思いますね。もうそれこそ肉体は滅びとするけれども魂だけは、心だけはやっぱり親先生の足下にあるとこういう。ね。
そして昨日又頂いたそうです。これは昨日栄四郎からお届け聞かせて頂いたが、恐ろしくなったち云う。なぜ上滝総一郎の所ばっかり現れなさるかち、云うことは、それは実際云うたら私の所にあられたいのあるけれども、これは先生の精神ですけれども、私の側に寄られたら本当にもう緊張しきられるんですよ。こりゃもう毎日同じ。ね、云うならば親先生の所でありしたんでは、やっぱりおそれ多いと云うので同じ名前の総一郎、私のこの人が生まれたときにゃ、親先生の名前をどうでも頂かせて下さいと云うて、親たちがつけたんです。だから同じ総一郎の所に現れなさるんです。
もう昨日なんか頂いとるのはもうこりゃ、その何ち云うでしょうかね、何か栄四郎が云ってましたが、お筆先のような感じだった。そこに白紙を出せ、ペンを持てといわれて書いて、書いてるのがひらがなばっかりでね、そのもう子供の頭から出たようなこつじゃない教えをずうっと云うておられるから、それを書き留めておるのを、昨日私は見せてもらいました。そういう云うならば一途なものが、この世あの世を通して出けるということは、如何にその事だけにいわば、先生がまあ思いを、もう云うならばそうせずにはおられなかったと云うことですね。
そうせずにはおられなかったというその心がね、私は出けた時に、始めて本気で合楽の信心によって助かろうと、腹を決めた事になると思います。決めたごとあるけれども、さあお願いをする。お願いをするけれどもおかげ頂かん。いや電話をかけたけれども、あの出ても下さらなかった。もう縁が切れたと云うて、ある教会に例えばお参りしたといったようなね事ではないでしょう。
もうこの方一心と定めておるようであってなら、例えばそういう昨日岡崎さんが発表しとられましたが、親先生から頂いた御理解、もうとにかくあのうふるいにかけられんようにしとけという御理解を頂いたちいう話をしてましたです。ね。 昔は箕(み)ちゅうのがありましたよ。こうさびるやつ。それをおさびがえとおっしゃっておった。時々神様がね、おさびがえをなさる。だから実のあるとだけは残るけれども空(から)んとだけは飛んでいくというわけです。
だから私共もどうしても、その実のある信心をさしてもらわにゃという話をしとりましたがね、ちょっとこうそのまあきつう事があったり、自分の思いに添わなかったというともうちゃんと飛んでしまっとる。そんなことでは私は一心と定めるということにゃならんのだし、もうこの生き方に決めたというその云うならば執念のようにその事に対するその貫く心というのは生まれて来ないです。
そこん所にです、いわゆる心ひとつで総てを創るというような働き、昨日私は佐田先生から今のその上滝総一郎君のお届けを聞かせて頂いとる所へ、久富先生所の子供達が皆で九人からおりますからね、昨日御礼参拝して来ました。だから昨日は私が云うたっちゃ、こう通とせんような感じだったけれどもね、昨日は私がその話を今じゃったよ、あのあんたげんお父さんの御夢をの誰々がこうじゃったと話したら、そりゃ非常にこう感動的に受ける感じがした。
そしてこれからは後から、若先生がお茶でもあげて話とったそうですが、本当にこれからはお父さんが信心をまぁ受け継がにゃといったような意味の事を、まあ話ていったということですけれどもね。やはりあのう、例のそうした働きがそういう風な形で伝わっていくことになったのでしょうね。お互いがねもう合楽一本に決めたとかね、この教え、確かにこの教え、昨日の昼のミニ御理解何かを見てご覧なさいね、もう本当に土の心でいくと決めたらいかにゃ。本気で成り行きを大事にするちいうたら、本気で成り行きに徹しようという、その一心がでけた時に、そりがいわゆる心ひとつでおかげの頂けるという心のなのです。
だから私共の思うておる一心とまたはいろいろ教えを覚えておるというても、それが一心に貫かれる、貫く腹がでけるという、そこには貫かせて頂く働きが必ず起こって来る。
こりゃ文男先生が云うようにです、苦しいこともあった、情けない事もあったけれども、それを苦しいとも、情けないとも思わんで済むような、云うなら注射をちゃんとしてある先に。だから手術をするのに、痛い思いをせんまま手術が目が覚めたときにゃでけとうたち、いうようなおかげを頂いてきた数十年の話をしてました。
だから一心が決まるとそう云う働きを神様は必ず現しなさるて。だから先ずその一心のね、ひとつ検討、先ず今日の御理解では一心。商売をするならこういう風な生き方にならにゃならんとおっしゃるから、それをだから、実験してみなけりゃいけない。実証がでけてくるようになるとね、それが当然の事としてでけるようになる、当然の事くらいの事じゃない。それをそれが有り難くでけるようなるというところまで、いかなければ云うならば、徳の船にも乗ったということにはならんと私は思いますですね。 どうぞ